【SDGs】コロナの時代に、戦争を考える。

境界っていうのは、あったでしょう。
壁じゃなくて、なんもないと思いますよ、壁は。
とにかく広いからね。
学校なんかの授業だってね、
夜、夕方、グランドに水まくんです。
だああっとさ。
そうすると、朝には、天然のリンクになってさ。
そこでスケートの練習を始めたり、体操の時間にね。
寒いんだよ、もう鼻毛なんかバリバリ凍っちゃうしさ、
睫毛だってこうってこすると、折れちゃうしね。
だからみんな、防寒だけはすごいよね、うん。

 令和二年八月、お盆休み前の九段下駅の近くには靖国神社の幟が几帳面に立っている。
幟に左右を挟まれて大きな鳥居に向かって歩いていく人の後ろ姿。昨年この辺りを散策していたのは、多くは外国人の観光客だった。
 わたしは靖国通りに沿ってしばらく歩き、皇居に近づくように左折する。横目に靖国神社の外壁がずっと先まで、続いているのが見えた。
 お堀のカーブに沿って歩くとすぐにインド大使館がある。皇居を左手に見ながらしばらく行くと緑の木々が広がる。
「みんな寝てるね」
 皇居のお堀にカルガモが浮いている。一族だろうか。
 どれも柔らかそうな栗色の体をしているが、羽に青いところがあるのや、少し小柄なの、いろいろだ。
「そうだね」
 右側のあなたはちら、と前を見た。
 歩道の先にわたしたちと同じようにお堀を覗く親子がいる。三歳ぐらいの子どもは、青い毛糸の帽子をかぶり、水面を指さす。
「あ、潜ったね」
 他のよりもふたまわりほど小さい、こげ茶色のカモが水の中に入った。他に動くものはおらず、水中は澄んでいる。
「速い、速い」
 こげ茶のカモは、水中をぐいぐい進んでゆく。少し先で頭を出して、カルガモの群れに合流した。カルガモたちは同時に首を伸ばしたが、小さいカモを見ると、すぐにまた首を縮めて動かなくなった。
 小さいカモも落ち着いたようで静かに水面に浮いていた。
 熱した風が吹いて、わたしは額に浮いた汗を手の甲でぬぐった。ビルに包まれた小道には行けども行けども、影がかかっている。
 歩道の向かいでは、ちょうど二人が横並びになって入れるぐらいに、ひっそりと門が開いている。
 千鳥ヶ淵戦没者墓苑の門をくぐるとき、笑い声がして振り向いた。
 男の子が、お父さんにはみ出たシャツをしまってもらっているところだった。

 千鳥ヶ淵戦没者墓苑は、第二次世界大戦において、海外で亡くなった遺骨を納めるための無名戦没者の墓だ。昭和三十四年に政府によって建設された。
 約五千坪の敷地は、ぐるりと常緑樹が囲っている。靖国神社の六分の一程度の広さである。
 遺骨は昭和二十八年以降の政府派遣団や、海外から帰還した部隊や個人により持ち帰られた。
 軍人のみならず、海外において犠牲となった民間人も含まれるがいずれも、身元がわからず、遺族に引き渡すことができないものだ。
 創建当時は、細く低かった木々も大きくなり、冬でも楠などの常緑広葉樹が生い茂る森となった。一方で、六角堂の周りの欅はやさしい影を落とし、暑さに茹だった訪問者を迎え入れている。

長春って大きな町、
長春から、今の北朝鮮の葫蘆(ころ)島というところがあるんですよね、
そこまで、汽車で、とろとろ、とろとろ、何日もかけて行って、
そこから…舞鶴まで、引揚げ船に乗って、帰ってきたの。
引揚げのときがやっぱりなんていうのかな……
もう…我先に、とこう、帰りたいわけ。
日本に帰りたいわけでしょう。
帰るって言ったって、貨物列車の、板だけの。
そこにみんな、ウヨウヨ集まってきて、乗っかって。
途中で落っこって死んじゃった人も、たくさんいるしね。

 遺骨が持ち帰られた場所として、最も多い地域はニューギニア、ソロモン諸島などを含む中部太平洋であり、フィリピン、中国と台湾、そして旧満州がその後に続く。
 令和元年に九百二十五柱が新たに加わり、合計二百四十万柱が六角堂の下に眠っている。これは現在の愛知県名古屋市の人口と同じぐらいだ。
 遺骨は、六角堂の中央に置かれた陶棺の地下納骨室に安置されているという。

私は終戦の時は六歳ぐらいで。
だから私は戦争のあれは、あまり記憶にないけど、
父親がなんで満洲に行ったかっていう。
満洲国っていうのは、そこに行政、ほら、いろいろあるじゃない、官庁。
で、お父さんは、大学で化学を勉強したんだけど。
全然違う畑に、経済部のお役人さんになっちゃった。
うん、お役人さんだよね。
もう満州にいた時は、けっこうほら、なんていうのかな。
日本人はすごかったのよね。
えばってたから。
良い生活してた。
お父さんは役人で入ったけど、農業で入った人もいるわけ。
満洲の開拓団。
畑はもう、ものすごく広い。
だだっ広いんです。
荒地を開拓して、畑にして、すごかったよね。
あのときは夏だからさ、トマトのこんなん大きいのが、
ガンガンなってるんだよね。
だから、負けているって感じはしなかった。
あっちでもこっちでも戦果が上がったように報道するじゃない。
非常にこわいことだよね、
本当のことを伝えようとすると殺されたりする。
今でもあるじゃん。

 一九三二年に愛新覚羅溥儀を執政に迎えた満州帝国が建国される。
 国連から派遣され、満州事変のきっかけとなった一九三一年の柳条湖事件を調査した調査団団長、ヴィクター・リットン卿はこう残している。
「満州事変は単に、一つの国が他の国を侵略したとか、そういう単純な話ではない。」


たぶんね、あのころは、日本軍、関東軍っていうんだけど、
そういうの、信頼していたんでしょうね……
そうだよね、満州にいる日本人は、物資とか困らなかったからじゃないの。
で、けっこうさ、中国の人と戦争しているけれど、
中国の人はそんなに、意地悪言ってこないしね。
完全に「満洲国」っていうのがあってさ。
中国の人とは交流あったよ。
民間の人たちは、非常にのんびりしているんだよね。
嫌な感じでもないね。
かえって、日本人の方が嫌なことをしたんじゃないかな、中国人に対してね。
いじめたりね。そんな感じがする。
中国人の子供に会ったことはないのね。
小学校って言っても、国民学校っていったんだけどね、昔はね。
日本人ばっかりだから。
普通の小学校、日本の学校の教科書だからね。
中国語の、授業が始まったの。
始まったばっかりで。
イー、アー、サン、スー(一、二、三、四、五)とか、
シィェンション・ライライ(先生来来)とか、
ほら、「先生いらっしゃいました」。
お母さんなんかは、近所のものを売りに来る中国のおじさんがね、
リュウさんていうんだけれど。
そういう人たちと、ちょっとお友達になったりね。
あとは、だってさ、ほとんど原野だし。
中国の人の家は、多少、平家のバラックみたいなのが、
ぽんぽんってあってさ。
そこで、ヤギ飼ってたりさ、農業やっていたり。

 戦没者墓苑のすぐ入り口を左手に曲がると、背の低い樹木で囲まれた中庭のような場所がある。
 中心に六角形の石柱がふたつあった。
 大人三人が腕をめいっぱい広げて手を繋いだらやっと囲えそうな大きさだ。どっしりとした立派な胴回りがある。
 向かって左側は引揚げに伴う死没者のための平和記念碑、右側には強制抑留者のための追悼慰霊碑だ。ほんのりと桜色をした万成石を使った碑からは温かみが感じられた。
 これらが建立されたのは平成二十二年のことであり、周りの木々も六角堂を囲むものに比べたら、若々しい。
 わたしの曽祖父を始め、大陸へ渡っていった人々はどのような思いでいたのだろうか。
 満洲では、もともとその土地に住んでいた人々から農地が買い上げられ、日本の国土からは想像ができないほど広大な農地が開拓団に与えられたという。
 入植者の多くは、長野県や石原莞爾の故郷である山形県からの人々だった。農村部の困窮や満洲への憧れなどの動機からだったという。
 また熊本、兵庫、高知県からの満洲移民の中には被差別部落の出身の者も多かった。
 彼らを駆り立てたのは「満洲に住めば差別は解消する」という言葉。
 「王道楽土」という玉虫色の言葉と、大陸の謎めいた魅力は人々の野望を駆り立てた。
 しかし、被差別部落出身者の多くは、満州でもまた奥地を割り当てられたため、終戦直前にはソ連軍の進撃を受け、全滅したという。
 幼かった祖父が、そして顔も知らない曽祖父が必死に生き延びたこと。
 祖父の体を通じ、無数の魂が令和にあってわたしに訴えかける。


満州の家ってさ、寒いもんだから、レンガ造りなんだけど、
こう二階建てのテラスハウスみたいなね、
役人の官舎地ってずうっとならんでてね。
日本の役人の、地下全部、床暖房になっていたの。
隣には航空幕僚長長官が住んでいたしね。
すごい豪華だったんだよね。
それで、寒いもんだから、部屋が、それぞれ玄関が、
板が二重ドアになっていたんですよ。
戦争が終わったときは……
いきなりソ連兵が入ってきたの……
いきなりソ連兵が入ってきてきて、
銃剣、銃剣って知ってる?
銃の先に剣がついている、あれでもって、
だばあっとドアを突き破って、
銃剣の先が出てきたのを覚えている。
ダンダンダン、っていって、出てこいっていうわけよ。
開けろっていうわけ。
みんなガタガタ震えながらさ。
親父たち、お母さんが出ていって開けたんだ。
そうしたら、ドオっと入ってきて、
日本兵を隠してないかっていうかんじで、部屋の中を探したわけ。
なぜかっていうと、お母さんが先に外に出て、
何か取りに行ったんだと思うんだよね、
それで、様子見たもんだから、疑われたんだよね。
誰か隠してないかって。
日本兵を隠してないかって。
隠してたら、
そのまま、兵隊さんに捕まって殺されちゃうよ、うん。
そのソ連兵は、兵隊さんって必死だから、強盗に変化するんだよ。
変わっちゃうんだよね。
腕時計なんか、人から奪ったやつをいっぱい、ここにしてつけているんですよ。
うちからも時計とカメラと、持っていかれちゃったの、うん。
そういう目ぼしいものをみんな持っていっちゃう。
兵隊も泥棒になっちゃうんだよね。
強盗に変わっちゃう。
戦争ってすごいな……って思うんだけどさ。

 「五族協和」を謳った満洲国とはなんだったのか。
 満洲へ視察に来た財界人の森は以下のように書き残している。
 「新京(現在の長春)の目抜き通りには、マーチョ(馬車)が鈴の音高く行き交い、白系ロシア人、満州族、漢民族、朝鮮人、日本人たちの笑い声が飛び交っている光景に心が和んだ。
 そして新京郊外の水源地、浄月譚に行った帰り道、化粧したわかくぃ婦人たちが、春風の中をマーチョに揺られながら、屈託のない笑顔を送ってくる姿を見て、すっかり満洲の虜になってしまった。」

兵隊さんの慰問団が来るでしょ。
日本から、森繁久彌とか、そういう人たちは満州映画劇場っていう大きな劇場があって、そこで、公演して、兵隊さんを慰めたりしていたわけ。
それなんか一緒にこう、馬車でね、つれていってもらって。
あの頃、馬車を、タクシー代わりに使ってた。
一番上に立つ人が、やっぱり変えていくよね、世界を。
地元の人が殺しに来るわけじゃない。
民間の人たちはもう、仲良くやって、お互いにね、やっていたから。

 今より幸せになりたい。
 その素朴な願いは、陸軍の鬼才、石原莞爾にしても同じだった。
 石原莞爾は「満州をごっそりいただいてみせ」ようと、独断で柳条湖付近の南満州鉄道の爆破を自作自演し、日本の満洲進攻の口実を作った。
「戦争は最も悲惨なる、最も悲しむべき、最も憎むべきもの。だが戦争は文明を破壊しつつも、新文明の母たりしものなり」という独自の考えによるものだった。
 石原は「世界最終戦争」の末に、日本が東西の文明を統一し、日蓮的な平和がもたらされると信じていた。彼は国柱会の熱心な信者だった。
 どのような理由であれ多くの人を傷つけ、豊かな大地を焼くことは許されるべきではない。
 しかし正義もまた、玉虫色だ。

復興は急じゃないよ、もう大変。
帰ってきたら日本国内はもう全部、荒れ放題で。
芋の茎とか、畑にやっている野菜の茎とかそんなものまで食べてね、すごいよ。栄養失調になった、私は。小学校二年生の時にね。
お父さんは日本に帰ってきてね、郵政省に入ったんだけど、
横浜に借家を借りて、みんなでそこに住んでいた。
あの頃は進駐軍、兵隊さんいっぱいいたからね、横浜は特に。
それであの、みんな兵隊さんいろんなのくれるわけよね。
私は子どもだからさ、チョコレートだとか、なんだろうな、珍しい、
アメリカのお菓子とかね。
そういうの、ばらまいてくれるわけよ。
そんなの拾って食べたりね、すごかったよ。
みんな、みんなが大変だったからね、うん。
誰かがお金持っているっていうのでもないから、みんなが、うん。
みんなが、全員が、だから。
戦争はすごいよね。
日本の兵隊だって外国、中国とか行ってさ、似たようなことやってたじゃない。
だから戦争っていうのはね、人間がね、変わるよね、うん。

 わたしたちの他には一組の老夫婦が献花をして足早に立ち去ったのみで、墓苑はひっそりとしている。
 六角堂の横で、百円を銀色の箱に納めて、代わりに白い菊の花を手に取る。ここではお賽銭はしない。
 宗教色に囚われないことが千鳥ヶ淵戦没者墓苑の特徴だ。
 参拝の方法も自由である。どんな方法でも良い。参拝者自身の考えで構わない。
 気がつくと、わたしは自然と手のひら合わせていた。
 仏教では右手が不浄、わたしたちの生きる現世を示し、左手が浄、仏がいる来世を示す。わたしの中で震えている言葉にならない祈りは、ここに眠る彼らに届くだろうか。

戦なき世を歩きて思い出づ かの難き日を生きし人々

 六角堂の手前の歌碑である。終戦六十周年を迎えるにあたり、平成天皇の御製を常陸宮妃殿下が謹書されたものだ。
 一文字ずつ丁寧に刻まれた言葉は、この墓苑に確かな手触りを添えていた。
 墓苑を出ると、お堀の周りを寄り添いながら歩く老夫婦の姿がある。どちらともなく支え合って歩く様子は、顔も知らない祖父の両親のように思われた。

 来た道を戻ると、正面に見える靖国神社の外壁をより高く感じる。
 つるりとしたコンクリートの壁の向こうに、赤や黄色の出店のビニール屋根が見えた気がした。
 そんなはずはない。どこに行ってもコロナウイルスの影響で、色とりどりの屋台を見ることはできないのだから。
 今年の夏は少しさびしいね、とあなたに声をかけようとした。横を見るとあなたはわたしの顔をじっと見つめていた。
 もしかしたら、暗い顔をしていたのかもしれない。わたしの右手を握るあなたの手に力がこもる。
「少し、暑いね」
「そうだね」
 すぐによく知った声が返ってきた。
 老夫婦にも、お堀のカモにも、あなたにも、父がいて、祖父がいて、そのまた父がいる。
 途方もないほど遠い、たくさんの存在がわたしの中に、あなたの中にいる。
 彼らの尽きることない思いがきっと、わたしの闘志の正体だ。

「おもいつきない」

おわりに

今週末は終戦記念日であり、SDGsの16番目の目標「平和と公正をすべての人に」というものについて考える機会になるのではないかと思い、拙文を掲載いたします。
先日、一同で写真撮影をした帰りの「また会いましょう」の重みとその日半年ぶりに見た東京を、会うことができずにいる祖父の実体験とともに文章に表しました。
コロナウイルスを語るとき、戦争にたとえられることもある中で私たちはこの未曾有の事態をどう進んでいくのか。
あやしい情報が飛び交い、先行きの見えない状況や孤独と向き合い、戸惑いながらも生活を繋いできた多くの先人たちのように歩んでゆきたいという祈りでもあります。
これからもSDGs、誰ひとり取り残さない社会のあり方について考えていきたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

(文責:清田)