2020年はこれまでの社会では考えられなかった全世界vsウイルスという構図から幕が開けた。価値観を180°変えてしまうような出来事であり、まだまだ収束はしていない。
そんな最中の5月25日、アメリカのミネソタ州ミネアポリスにて一人の黒人が警官によって不当な拘束をされ、息をひきとった。撮影された動画がSNSで拡散され、アメリカ国内で人種差別と警察の暴力に対するデモが始まった。
アメリカで起こったBLACK LIVES MATTERの運動は、またしても全世界的に瞬時に広がり、太平洋を挟んだ日本にも、多くの情報が入ってくるようになった。東京や大阪でも、人種差別への抗議デモが開催された。
今回の記事は、人種差別の問題に対して私たちはどうやって向き合っていけば良いかを考えるきっかけになれたらと思う。
SNSで広がる声
アメリカの現状や世界で起こるデモの様子はSNSによってリアルタイムで手に入れることができる。多くの人たちが声をあげ、アメリカと黒人との歴史を学ぼう、協力していこうという旨の発信をしてくれている。警察の暴力に対抗する団体や、反差別的な運動を続けている団体に支援を呼びかけている人たちもおり、日本からでもドネーションをすることも可能だ。
しかしながら同時に、SNSを見ていると「人種差別は良くないが、今回の出来事は直接的に自分には関係がない」「日本において、アメリカで起きているような黒人差別は無い」とこぼす日本の人々が一定数見受けられたのも現状であった。
これを書いている私自身、今回の#BLMに対する日本人の関わり方は難しいと感じる部分はあり、どうやったら自らの立場からアクションを起こせるのだろうか、と日々考えている状況である。
アジア人という立場
アジア人である日本人が、白人と黒人の対立、という社会構造に実感をもてない人がいることは事実だ。今回のように暴力を振われる明確な差別は、日本ではなかなか目にしにくいことだろう。このことから日本で暮らす日本人は、一方的な人種差別は起こりにくいと感じている。しかし日本人もアジア人であることを忘れてはならない。一歩海の外へ出ると、新型コロナウイルスの一件然り、アジア人に対する一定のステレオタイプが存在していることは想像できなくない。
これは黒人vs白人の問題ではない。黒人差別の現状を良い方向へ変えていくことは、同時に私たち自身の未来にも自然と繋がってゆくのである。
長く根付いている差別をどうにかしなければ!と感じても、あまりに大きな問題すぎて個人では何もできないような気がしてくる。
しかし、今回の問題を皮切りに、人を見た目―特に「見た目が」外国人か/そうでないか―で判断していないか?という視点を持ってみることは誰にでも可能だ。
自分とは違って見えるものに対する不安
日本に住んでいると、無意識の「日本人スタンダード」とされるものが共有されてしまっている部分もあるのではないだろうか。どこか、「こうあるべき」という像がある上でのルールを守って生きているような気がする。
― 例えば、見た目が日本人っぽくないからという理由で苦しい思いをした人がいたとして、その人は親が日本人ではないが日本で生まれ育ち母国は日本の日本人かもしれない。
私たちは、見慣れていないものに対して戸惑ってしまいがちである。しかし、性格が合わないという理由ではなく、性格を知る前から、見た目が周りと違うからという理由で距離をとってしまっていないだろうか。
とても当たり前のことだが、人間は、人間の数だけ個性がある。目に見えないスタンダードは、存在しない目標になってしまっているようにも思える。誰かにとっての当たり前は、誰かにとっての苦しさに繋がっていることがあるかもしれない。
日本と外国、パートナーシップの未来
これから、日本の人口は減少を続け、より多くの外国人が労働者としてやってくることは容易に想像できる。いままでよりも、外国人を見かけること・接することは増えるだろう。
外国人の中には、日本に永住しようと考える人もいるだろう。そういった変化にどう対応していくか。個性を、多様性を知り、同じ人間は存在しないことを知り、受け入れてゆく、その姿勢が必要なのは間違いない。
人間を、国籍や見た目だけで判断するのではなく、一人の人間として接していくこと。わたしたちにはその心が必要なのではないだろうか。
ここまで綴ってきた人種差別の問題は、SDGsが掲げている「誰一人取り残さない」という、スローガンにも繋がっていると感じる。
SDGsを見てゆくと、それぞれの目標は「個人」の取り組みとして考えやすい部分と、「国や世界」といった大きな目線でないとなかなか考えるのが難しい部分が組み合わさりできていることがわかる。SDGsの16番「平和と公正をすべての人に」・17番「パートナーシップで目標を達成しよう」といった部分に関しては漠然としていて、個人でどうにかできる目標ではないと感じる人も多いのではないかと思う。
しかしそれは、差別という根深い問題に対し個人がどうにかできるものではないと思ってしまうのと同じように、一人一人が意識をすることによってほんのわずかでも前進してゆけることではないだろうか?
大小さまざまな社会によって、世界はできている。そしてそのさまざまな社会は人間個人の集合によってできている。
問題に対して答えを出すことは難しいが、多くの方が少しだけでも意識を向けていけたら、世界は変わっていくのではないかと感じている。
(齊藤)